〜 3.11 絆 〜  あの日起こった事、心に誓った事

2014.02.28 Friday

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    2011年3月11日、巨大津波により沿岸部が大きな被害を受ける中、松島町は島の多い地形に守られ、沿岸部としては比較的被害が少なく済みました。

    松島町の中でも特にかき養殖が盛んな磯崎地区は、津波が防潮堤を超えず、津波浸水はありませんでした。それでも所有していた漁船の4隻中3隻を失ったほか、岸壁や加工施設に置いていた資材は、そのほとんどが流失してしまいました。

    3月11日当時、私は朝から海に出て、古い養殖施設の解体作業をしていました。昼過ぎに海から戻って工場に行きました。前日収獲して1日殺菌処理したかきを、朝から従業員達がむいていました。むき終えたかきを、袋詰めして家に戻りました。
    少し遅い昼食を済ませると、長く、とてつもなく大きい揺れに襲われ、津波が来ると確信しました。一緒にいた母親と従業員を親戚の高台の家に避難させた後、一人残り商品の片づけと戸締りを済ませ、近くの橋に逃げるように走りました。途中、ゴーー、バリバリ、聞いた事のない物凄い音を聞きましたが、高い防潮堤で見えなかったため、何が起きているのか、その時は分かりませんでした。橋の上に上がり、信じられない光景を目にしました。

    小船を係留していた所は、ほとんどの船が転覆したり岸に乗り上げたり、衝突で破壊された船もたくさんありました。
    比較的大きな漁船は、その時はまだ耐えていました。
    ところが、最初の津波よりも大きな第2波の津波がやって来た時、係留していた太いロープが次々と切れていき、船が流され始めました。

    小さい港の中で、真っ黒い波があちこちで渦巻いていました。
    助かってほしい。祈るような気持ちで眺めていましたが、何も出来ませんでした。何とか私の船はその時は耐えていましたが、次の第3波の津波で係留している錨のロープが緩み、転覆してしまいました。
    ずっと一緒に過ごしてきた。信じて命を預けた時もあった。命と代わらないくらい大切にしてきた自分の船。信じられない地獄絵図を目の前で見せられ、気が狂いそうでした。

    翌朝、依然として大津波警報が発令中の中、かろうじて残った1隻の船の係留と転覆した船の水抜き処置を行いました。

    数m航行した所でスクリューにロープが絡まりました。
    数日後、海中のがれきに衝突して航行できなくなりました。
    震災後は、船が全く使えないほど大量のがれきや漁業資材が海に漂流していました。海は3か月経っても泥で黄色い状態でした。
    また、松島湾全体で700台余りあった かき養殖施設はその全てが壊滅しました。


    船も道具も、いかだも皆失った。借金して船や道具を揃えたとしても、放射能の問題もある。下水処理場の被災で、生のかきはもう食えないかもしれない。何年かかるのか。いや、果たしてこれから本当にかきを作れるのか。作ったとして売れるのか。
    その時は「もう漁師などやめようか」と本気で考えました。


    10日ほどして電気が復旧した時、何気なく開いたパソコンを見て、涙が出てきました。次第に、あふれて止まらなくなり、画面が見えなくなるほどでした。


    そこには何通もの励ましのメールが届いていました。
    心に残っていたわだかまりが一瞬にして飛んでいきました。

    こんなにも心配してくれている人たちがいる。
    こんなにも応援してくれている人たちがいる。
    そして、自分たちの作ったかきを待っている人たちがこんなにも大勢いる。
    うれしかった。ありがたかった。


    応えなくてはならない。

    これからも漁師で生きていくしかない。

    もう、絶対にあきらめない。

    おやじ、見守っていてくれ・・・

    唯一残った船は、震災の2年前にがんで他界した父の形見の船でした。    



    震災で海藻類がほとんどなくなり、海の環境はすっかり変わりました。かきの生育も震災前とは違い、まだまだ復興には時間が必要です。
    でも、海も人間と同じように自然治癒力のようなものを持っていて、元の環境に戻ろうとする力を持っていると思います。
    夏に海藻が腐って抜ける時期がありますが、昨年は圧倒的に量が増えているように思えました。
    ハゼが前年と比べ、まだまだ震災前には遠いものの、かなり戻っているのが目に見えて分かるようになりました。
    海は、まだまだ私たちの知らない大きな力を持っていて、常に我々に恵みを授けてくれると私は信じています。